奈落

Nさんのご主人は
真面目で出来た人だった
新婚直後に立ち上げた小さな会社は
景気の波に弄ばれながらも
同業他社が倒産を続ける中で
今も数多くの顧客に愛されながら存続している
調子に乗らず、慢心せず
欲をかかずに「日和見」銀行の
無責任提案の「拡大路線」にも心動かさず
唯、自分を信じて地道に務めた結果と言えよう

Nさんの心配は
そんなご主人が自分の体も顧みずに
仕事に没頭してしまう事だった
確かに会社は数々の危機を乗り越えて来たし
2人の子供を大学卒業まで支えたのは
偏にご主人の不眠不休の頑張りのお陰なのは重々承知
心から・・心底から感謝していた

然し
Nさん自身も内勤経理で会社の内側から経営を支えて来たのだから
傍目から見ても素晴らしい夫婦なのだろう
従業員達もこの二人を支える決心の基
笑顔で社内の皆の席を立ち回るNさんに
人生の残りの部分を奉げたとて何の後悔があったろうか・・

下の子が
経営学部を卒業できる見込みとなり
分不相応とも思える大手企業に就職が内定した時
Nさんの心の奥にちょっとした「計画」が灯った

今までだって
人並みの給料だったとは言い切れない
万一の為に積み立てた貯金はなるべく手を付けずにいた
Nさんだって女性だもの
ちょっとお洒落なバックが欲しくなったり
同窓会に来て行く服も奮発してみたくなるのは当然至極の事だったけど
「頑張りすぎるご主人」に万一の事が起きないとも限らない

子供の学費だって・・
社員たちの給料だって・・
溜息をつきながら銀行残高を見る日々

万一の「保険」だった貯金がちょっとだけ自由になりそうかしら?

漠然と発生した「計画の灯」が具体的になるまで
もうちょっとの月日を要したが
子供達も不安無く「順風満帆」
美人で気立ての良い其々の彼女達に
未来の孫達の顔を想像しながら
彼女は「計画」を実行に移すことを決心した・・

クリスマスイヴの夕方
Nさんはご主人を「都内某所」へ誘った
(ちょっと動揺するご主人。。心中は如何に?)
2人を待っていたのは
敷き詰められた「赤絨毯」とスタッフ達の笑顔と喝采
歓声と共に抜かれる祝福のシャンペン達・・

そして赤絨毯の一番奥
厳かに自分に相応しいご主人を待ち受けていたのは
最高級レクサスの限定仕様車だった・・

ディラースタッフの心に
ちょっと意地悪な気持ちが過ったとして
役割以上に場を盛り上げ
「感激に咽る」ご主人が身を崩したからって何の罪があろうか?
奥様のNさんと人目を憚らずに抱き合ったからって
現場に居合わせなかった私は想像するしか手立ては無い・・

年が明けて正月二日早朝

音も無く
自宅の車庫を滑り出した輝ける「幸せの象徴」は
最初の交差点
停止線で停車する・・

・・・


私は・・

私はここで「筆を折っても」良いのかもしれないと思っている
静かに投稿してpcの電源を落とす・・
然し表題の「奈落」とはアンマッチだし
真実は語らなければならない

私は度々
幸福の絶頂の「景色」を想像する・・
それはいつも苦難に満ちた冬山の登頂のシーンであり
最後の緩やかな雪の稜線を
無風の真っ青な空
残り僅かな頂上部に向けてゆっくり歩みを進めるクライマーの私・・

然し
夢でもなく
頂上に達する後僅かな稜線が
張り出した「雪庇」であったとしたら・・

それこそ
新婚旅行に次ぐであろう
幸福の絶頂を「奈落」に墜としたのは
弊社のドライバーA君・・
正月気分が抜けなかったのか
60万円も突っ込んだ翌週予定の「成人式」の不良袴姿の自分に
胸躍らせていたのか・・

2tトラックは停止線で停まっていたレクサスに
noブレーキで突っ込んだ・・

せめてもの幸いは2人に怪我が無かった事・・

身代わりとなったレクサスはたったの10m程を走って全損

Nさんはショックで口が利けなくなった・・

ご主人は・・



私は
この後の話を書く勇気を持ち合わせていない・・
然しこれは実話で一昨年の話である