ビンテージアーカイブ

45年振りの大雪だそうだ
 
45年前の昭和44年・・ そうだあの時の事だ
 
今ほど天気予報の精度が良い時代ではない
ご老人が何かの拍子にひょいと空を見上げて・・
 
この寒さじゃ明日は降るかねぇ
 
古老が今より立場があって
辻角に椅子なんか出しちゃって
やんちゃな子供にカミナリを落すのがもっぱらの仕事だった時代・・
 
 
その朝
カーテンを開ける前に
母と私は既に外の異常に気が付いていた
 
家のすぐ近くを通る『環状七号線』から
車の騒音どころか
走行音さえも殆ど聞こえてこない・・
 
周囲を覘いて息を呑む
 
それはとっくに子供達が驚喜する様な仕上がった銀世界を
尚且つ『特盛り』にするべく
容赦無い降雪が続いていたのだから・・
 
当時の私は引越しの影響で電車通学
西武線「野方」から「高田馬場」乗り換えで山手線「原宿」が終着
 
当時の親達なんて『もし電車が止まったら?』なんて観念は微塵も無い
不安の欠片さえ感じていない『おバカ息子』の私
何の心配や心遣いの言葉も投げて来ない『母』を尻目に
『全身昂揚』の爆弾悪戯坊主は只管最寄駅に早足で向う・・
 
電車は普段通り位の乗車率・・
走り出した車内は外の「沈黙」の白世界に圧倒される様に声も無い
当時の西武線は『止まらない』ので有名
 
誰も強制していないのに
大雪の日は全社員が出社して各ポイントへの火入れを行なってくれるんでね・・  堤さん談
 
昨今じゃ
弱い「路線」が好き!
なんて人もいるかも知れないが
当時はホテルに前泊なんて観念も殆ど無かったと思う・・
 
さてそんな事はどうでもいい「悪ガキ」は
学校に着いても授業なんか半分も聞いちゃいない
 
只管・・夢に見た『本格カマクラ』東京構築と
放課後の無差別級『雪合戦』の作戦企画で頭がイッパイ。。
 
所が午後の授業が早めに切り上げとなる
先生だって家に帰りたいんだモノ当然の決定なのだが・・
(全員速ヤカニ下校シ帰宅!)
 
既に大量に『弾薬』を生産するシステムを新考案
ほぼ作戦全容を任されている「中佐」の私は
「作戦中止」のお達しに心から絶望し
「軍曹」や「中尉」達に慰められながら『原宿駅』に向っていた・・
 
明治通りの交差を右に曲がる・・
帰りはいつも『竹下口』(坂下)と決めていた (注
 
その時
イキナリ上から白弾の束が降ってきた!
 
不意打ちとは卑怯なり!
 
見上げると教会の上の敷地から「紅毛碧眼」の少年達から奇襲攻撃!
 
リメンバーパール●●●●!(多分言ってないと思う・・)
 
悪ガキの「雄」達は皆一緒にいる・・
かくして始まる『日米決戦』!
 
所が
こちらには百戦錬磨の『悪ガキ』が揃ってはいるが
やはり『肉食人種』は強いのである・・
結局日没ドロー・・
 
日没!?
 
それはやっぱりヤバイんである
私はこんな所から歩いて帰れはしない。。
 
「部下」達の戦勲を讃えながら
原宿駅に着いたらもう・・空は真っ暗
 
高田馬場」では
国鉄創生以来の「通行規制」
ホームに降りる所が無くてスレートを踏み抜いて
床まで転落した輩がいた位 (多分・・生きてたと思う)
 
野方駅に着いて
家に辿り着いたのが既に20時半を廻っていた・・
 
おかえりー!
(当時の親は不安でも心配でも態度には絶対出さなかった・・)
 
 
降雪40cmの記録
 
長靴のヘリより雪の方が高かったので
「長靴」の意味を全くなしていなかった・・
 
欧米人が原宿の裏の坂でスキーをしていた。。
生まれて始めて見てぶったまげた
 
環七は部分?通行止めとなり
今の野方、丸山陸橋辺りが恰好のスキーゲレンデとなったそうだ・・
(私は日米決戦真っ只中だった為見ていない)
 
 
あれから45年か
 
愛する原宿の様相も全く変わってしまっただろうなぁ
当時は
今みたいに「お登りさん」御用達の店なんか無くて
どこかフレンチな雰囲気の良い街だったんだけどなぁ・・
 
 
(大昔は沼地で湿気の多い街だからね。。無理矢理住むとカビだらけになるよ)
 
注)
田舎者は「坂下口」と言い
都会者は「竹下口」と言う
  ↓
ロコ、通の人